以前ワークショップの話を書いた。
今回はそれに付随する話である。
例えばある監督のWSに参加したとして、終わったあとに飲み会があるとする。
そのときに他の参加者を差し置いて監督の隣を真っ先に陣取り、ずっとその椅子を明け渡さない役者がたまにいる。というか毎回必ず1人か2人はいる。男女関係なく。
監督の話に大きく頷き、声を出して大袈裟に笑い、お酒のお世話をする。
分かりやすいゴマすりである。
キャバ嬢のように徹底的に監督から離れずにおもてなしをする女優さんも多い。同じようなタイプが何人もいるときは右も左も前も女優に囲まれて、監督がハーレム状態になっているときすらある。女優たちの火花が聞こえてくる。
この、多少無理やりでも自分をアピールすること。ぼくにはこれができない。
ものすごく抵抗があるのだ。
無論、芸能界は椅子取りゲームなので監督に自分を徹底的にアピールすることは否定できない。
ただ、ぼくには絶対できないなぁと毎回思いながら離れた場所でその光景を見てる。
監督の隣を陣取り、自分を売り込みたい人の目的はただひとつ。
キャスティングされること、それだけである。
なので監督が言うことが為になろうがそうでなかろうが首がもげるほど頷き、「俺(私)は貴方と同じ感覚を共有してますよ」とアピールする。全然面白くない冗談でも腹を抱えて笑う。
全部ウソの感情である。
それは監督と役者の正しい関係ではない。
ただの接客だ。
監督の人間としての内面などどうでもよくて、ただ「監督」という記号でしかその人を見ていない。
ただ気に入られたいだけ。恥も何もかも捨てて必死に取り入る。
品のない、悲しい世界だな、と思う。「監督」という職業が哀れに見えるときすらある。もっともっと素晴らしい職業なのに、それに群がる役者が格を下げているのだ。
監督によってはその状況を純粋に楽しむ人もいるだろうが、基本的に皆そんなバカではない。それはそれ、これはこれで分断されている、とは思う(実際は知らない)。
とは言いつつも、やはり自分もそうしなければいけないのかなと悩むこともある。
世の中は正しい人よりも声が大きい人の意見がまかり通る。脚本家の友人と話したときも「当人の能力そのものよりもアピール力で仕事が決まる傾向がある」と言っていた。
何も斜に構えているわけではなくて、自然に監督と話すことがあれば普通に話すし、ゴマすり連中と同じように自分を覚えてもらいたい感情は持ち合わせている。
でも、自分が滑稽だと思う人間にはなりたくない。
監督と俳優は役割が違うだけでそこに優劣はない。
そんなゴマすり現場を見る度に、ある監督がワークショップ終わりに受講生に言った言葉を思い出す。
「次は作品に対して対等な関係で会いましょう」
誰とでも人間としての付き合いがしたいものである。