文章が上手くなりたい。
切に願う。
心に潜む思いの丈をあらゆる角度・方向から絶妙の例えを交えて、読み手が「こりゃ一本とられたわい」と感心するような文章を書きたい。
週に2度、このようなコラムを書き続けていると、嫌でも自分の文章作成パターンに気付いてしまう。
主張、理由、否定、否定への反論、再度の主張など、格闘家の得意技のようにある程度の『文型』が自分の中に決まってしまっていて、それをなぞり呼吸するかの如く文章を書いてしまう。
これは良くない。
本当に良くない。
↑のように同じ意味の文章を強弱を付けて繰り返すのもお馴染みのパターンだ。
これまで何度も多用している。
例えばの話。
今日は「これを書こう」とテーマを掲げた段階で、自分が書きあげるであろう文章の完成形がうっすら見えてしまうことがある。それもある程度の文型があるが故だ。
自分の書いた文章はいわば自分の分身である。好きか嫌いかで言えば当然好き。愛せない子供など生み出すべきではない。
しかしこう何度も何度も子供を生み出してると、「こいつ前のやつに顔そっくりじゃねぇか」というヤツが現れてしまう。
せっかくポケモンを買ったのに出てくるのが全部ピカチュウだったら何も面白くはないだろう。可愛く「ピカピカ」と言われたところで軽く耳を引っ張ってしまうかもしれない。
ぼくはぼくを深く知っているので、何が書かれるのかは書く前になんとなくわかる。
もはや、ぼくはぼく以外の人間になって、思い出も利き腕も脳味噌も全部違う存在になって文章を書きたいと思っている。
なんてキモい思想なのだろうか。
だがしかし、今はぼくは猛烈に文章が上手くなりたい。
読み手を満足させ、小野哲平は本当に魅力的な文章を書く人間だと思われたいのだ。
今のままでは毎回同じパターンの文である。
姿形を変えたとて、結局中身は同じ味。
かき氷みたいなこのコラム。
香料と着色料を変えただけのシロップ。
いちごもメロンもブルーハワイも皆同じ味。
そんな貴方が好きなのよ、と言ってくれる人は多かれど、ぼくは更なるステージに自分を連れていかなければいけない。と、言いつつも何も変わらず時間だけが流れていく。
文章もスポーツと同じで、やればやるほど上達すると風の噂で聞いたことがある。
まず、書く。
話はそれからだ。
結果が出るのは数年後かも知れない。
ぼくは書き続ける。遠くない未来にこの苦悩の文章を読み返すときが楽しみである。