「爆笑問題の死のサイズ」という本がある。
発売されたのは2000年。随分昔だ。
当時、爆笑問題の本を片っ端から購入していたぼくは発売直後にこの本を入手した。残念ながら今日に至るまでこの本が世間的に話題になることはなかったと記憶しているが、当時のぼくにとってはなかなか衝撃的な本だった。
「死のサイズ」とは「新聞紙面での死亡記事の大きさ」である。
本書はその死亡記事の大きさで故人の「偉大さ」を測っていくという内容だった。
キャッチコピーは「小渕首相と寅さんの死はどちらが大きかったのか?」。今なら倫理的に騒ぎ立てられそうな文言である。「死のサイズ」という言葉も冷静に考えりゃヤバい。
様々なデータを駆使して歴史的大物の死と、その死が社会に与えた影響について考察する。
笑いが多い爆笑問題の本の中ではあまり笑える箇所が少なかったのをぼんやり記憶している。
この本で「死のサイズ」という言葉を認識するずっと前から、ぼくは「死の大きさ」についてぼんやり考えていた。小学生頃の話である。
毎日沢山の人が死んでいるのに、テレビや新聞で取り上げられる人とそうでない人の差は何なのだろう。
例えばうちの家族や知り合いが死んじゃったら新聞に載るのか。
なんてことを考えていた。薄気味悪いガキだ。
新聞に載るか載らないか。ひとつの線引きは有名人かそうでないか、だ。
例えば政治家やテレビ・映画に出てるような有名人。「みんなが知ってる人」は死ぬと沢山のメディアに取り上げられる。
では有名人じゃないのに連日多くの紙面を飾る死はどんな死なのだろうか。
そんなことを漠然と考えていた。
社会的に誰々が有名であるとかは幼いぼくにはわからなかったので、単純に紙面で取り上げられる人の死は、なんというか「すごい死」なのだと思っていた。
「すごい死」というのも何とも曖昧な表現だが、本当にそう思っていた。
そして大人になるにつれ、有名人でない人が「すごい死」によって紙面を賑わせることができる条件にも気付くことになる。
それは、大きな事件や事故の被害者として亡くなることである。
話題性のある残虐な事件やいたたまれない事故の被害者は、死後にその生い立ちや人生がクローズアップされて有名になる。その事件の社会的関心が強ければ強いほど、当人の意志とは無関係のところで「死のサイズ」が拡大されていく。
だが、それらは…決して良きことではない。被害者の人生を表沙汰にすることで世の中に対して事件へのさらなる関心を引くのは決して美しいやり方ではない。
物理的な紙面上での「死のサイズ」は存在していても、「死」や「人生」そのものに上下関係はないのだ。
どんな人間にでも過ごした時間や物語がある。
「死のサイズ」を今で言うならばネットニュースの拡散数やそこについているコメント量であろう。
連日報道される様々なニュース。
その度テレビやネットに広がる「死のサイズ」を「人間そのものの価値」と捉えないようにしていきたいと強く思う。