漫画家になりたかった。冗談ではなく本気で。
漫画家は世の中にある全ての職業の中で一番すごい職業だ。映像作品に例えるなら、脚本家、カメラマン、監督、俳優、本来分担されている全ての仕事をたった一人で背負ってる。そして全てのレベルがプロ。専門職の総合職である。
凄いストーリーを考えることができても、絵が描けないと漫画家にはなれない。魅力的なキャラクターを描けても物語が面白くなければ漫画家にはなれない。
台詞もそう。読者の心を掴む魅力的な言葉を自分で考えなければいけない。
全ての能力がないとダメなのである。
売れればアシスタントが付くだろうが、最初に世に出るまでは一人だ。たった一人で悩み、苦しみ、全てを考えて創り上げる。凄過ぎる。
こと芸術分野においては漫画家は最強の職業とぼくは思っている。
そんな漫画家に、ぼくはなりたかった。
物語を考えることが好き、キャラクターを考えるのも台詞を考えるのも好き。漫画を読みながら「ここがこういう展開になってたらどうなったんだろう?」と妄想するのも好き。
だが、ぼくは絵が絶望的に下手だった。
生まれて初めて徒競走をしたとき、今まで意識してなかったのに自分が他のヤツに比べて速く走れること、もしくはめちゃ遅かったという事実を知るあの感覚。
小学生になって絵を描いて、自分が自分の予想以上に絵が描けないことを知って絶望したあの夜。
大した苦労もなくスラスラと綺麗な絵を描くクラスメイトを見て、自分がそっち側の人間ではないことを知った早すぎる挫折。
絵が上手か否かは運動神経に似て、生まれ持った初期設定に左右される。ぼくにはそれが無かった。
それでも小学生の頃は沢山漫画を描いた。
仮面ライダーをモチーフにしたキャラクターを作り、そいつがめちゃ活躍する漫画を描いた。
タイトルは「バッタマン」。公になれば石ノ森プロダクションに暗殺される案件だ。
このバッタマン。仮面ライダー1号を模倣しているので見た目はなかなかライダーっぽい。
ただこいつには問題があった。
常に正面しか見れないのである。
横を向いてるバッタマンを描く技術をぼくは持ち合わせてなかった。もう少し言うとポーズを変えることもできずにバッタマンは作中でずっと変身ポーズをしている。正面を向いたままだ。
どんな台詞、どんな状況になろうともバッタマンは常に読者を向いて語り掛けている。読者がバッタマンを覗くとき、バッタマンもまた読者を覗いているのだ。
怪人との戦いなど更に悲惨である。
バッタマンと怪人が二人揃って正面を向いたまま戦う。まるでカップルシートに座った男女が窓からの景色を見ながら視線を合わせず喧嘩をするような、そんな戦いである。
互いに浴びせる台詞も、もはや相手に言ってるのか読者に言ってるのかわからない。
そしてバッタマンは戦闘中も、平和なときも常に変身ポーズをとっている。倒れたときもそのままのポーズで90度傾くだけだ。やられてるのにポーズを決めている。
哀れだ。ぼくは自分が作り出したヒーローの哀れさに涙した。バッタマンも視線の合わない相手と戦わされてる自分の境遇に涙したに違いない。
こうしてぼくは漫画家を諦めた。
あれから25年、久々にバッタマンを描いてみた。
やはり横が向けない。
漫画家はすごい。いつかぼくのバッタマンを横向きにしてくれる人が現れることを願う。