最近気付いてしまった。
マンガのキャラクター名が覚えられていない。
ここ数年、ハマって一気読みしたマンガでも、しばらく経つともうキャラ名が全く思い出せない。
というか、そもそもちゃんと名前を覚えながら読んでいたのかさえも怪しい。雰囲気で読み進めて、雰囲気で感動していたのかもしれない。
一気見した疾走感の影響は否めないとしても、つい一ヶ月前まで夢中になって読んでいた作品のキャラ名が思い出せないのは自分でも驚愕する。
老いなのだろうか。
しかしその一方で、小さい頃読んでいたマンガのキャラクターは不思議とハッキリ覚えている。
多分一度か二度読んだだけのマンガで、更に言えばそれから20〜25年近く読んでいない作品でも小さい頃にハマったマンガは細部まで結構記憶されている。
どうしてなのだろうか。
小さい頃に触れた芸術や体験はその人間の一生に関わる、というのはよく聞く話だ。
それはつまり、あらゆる物事を知る前に触れるからだと思う。
真っ白なキャンパスであれば何色を塗ってもその色が際立つ。
マンガで言うなれば、「よくある物語の展開パターンを知る前」に読んだから凄く面白く感じて、その衝撃を身体が全身で覚えているのだ。なので幼き頃にドハマリしたSLAM DUNKと幽遊白書なら、一般的には「お前誰やねん」と思うキャラさえも名前を言うことができる。
一度同世代の友人と「幽遊白書のレアキャラの名前言えたら勝ち」的なゲームを居酒屋でやって圧勝した記憶すらある。勿論抜き打ちチャレンジだ。
「心から面白いと感じて人にも薦めるマンガなのに、実は全くキャラクター名を覚えていない」
言葉にすると若干の情けなさがこみ上げてきてしまうが、わりとそういう人は多いと思う。
否、実はそれが普通だったりする。
考えてみてほしい。
映画でもドラマでもそうだろう。
面白くて何度も観たくなるけど、登場人物の名前を常に覚えているかと聞かれたら答えられない。
全くもってよくある話である。
極めて普通だ。
それが普通であるならば、実は名前なんかどうでもいいんじゃないかとも思えてくる。
ここでシェイクスピア先生の有名な台詞を紹介する。
「名前ってなに? バラと呼んでいる花を 別の名前にしてみても美しい香りはそのまま。」
大切なのは、名前を覚えてる記憶力よりもその作品を愛する気持ちなのだ。
もしキャラクター名を思い出せないことを咎められたら↑の台詞を返せばいい。
ぼくは女優の満島ひかりが大好きだが、仮に彼女が満島ひかりではなく、横浜花子という区役所の記入例みたいな名前でもぼくは彼女を好きになったと思う。
もう一度言う。
大切なのは記憶力ではない。
気持ちだ。
名前が出てこないことを恥じることはないのだ。
そのマンガを読んでいるときに心が動いたならその感情に嘘はない。
繰り返そう。
「名前ってなに? バラと呼んでいる花を 別の名前にしてみても美しい香りはそのまま。」
名前なんてものは所詮記号に過ぎない、という締めくくりで今日は終わる。
では、まぁ冷静に考えたら横浜花子はちょっと嫌だが。