コラム(不定期更新) 怖いネカフェの話

小野哲平これまでの歩み~幼少から現在に至るまで~

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はじめましての方も、そうじゃない方も、このブログへようこそ。

ぼくが 小野哲平 です。役者 兼 ブロガーです。

この記事はこれまでのぼくのことを詳しく説明する記事となっています。

なので長文です。短編小説くらいあります。笑

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おのぺーの故郷(~小学生)

1985年10月14日生まれ。

 

東急東横線の綱島駅と大倉山駅の間にある大曽根という小さな街で育ちました。

神奈川県横浜市港北区です。

 

渋谷から横浜方向だと綱島駅を過ぎて右手側。

横浜から渋谷方向だと大倉山駅を過ぎて左側にその街はあります。

 

僕が住んでいた頃はコンビニみたいなのは街にひとつだけだったような気がします。

あとは酒屋、駄菓子屋。これらも今はコンビニなのかな。

 

大曽根にも保育園や幼稚園はあるのですが、何故だか僕は綱島にある幼児園に通っていました。

室内プールと体育館がある幼児園で、毎日運動をしていました。

今思えば多少裕福な家庭の子が通う幼児園だったのかと思います。

 

小学校は大曽根小学校。

一週しないと100メートルに達さない小さな校庭と、きれいな鯉が泳いでる丸池(まるいけ)と呼ばれる池がありました。

 

大曽根の幼稚園に通ってなかったので知り合いはほとんどいません。

野菜が嫌いで給食の時間が苦痛でした。

 

4年生まではおとなしい子供でした。

5年生になってお笑い好きの友達に「漫才をやろう!」と声を掛けられたときに、今に至るぼくのアイデンティティが芽生え始めたと思います。

 

ぼくの人生のターニングポイントのひとつです。

 

その友人とひたすら漫才のネタを考えました。

1日1ページ友人がネタを書いてきて、ぼくが気に入ったものを二人で練習しました。

ぼくはツッコミです。

 

テレビは黄金ボキャブラ天国全盛期。

爆笑問題やネプチューンはその頃から大好きです。

 

その頃は中学を卒業したらお笑い芸人になると本気で考えていました。

だらだら学生期(~高校生)

漫才コンビを組んでいた友人が私立の中学校に進み、ぼくはお笑いへの熱が少し冷めてほのぼのした中学校生活を過ごしていました。

 

通っていたのは樽町(たるまち)中学校。通称たるちゅうです。

ひとつ上の学年にとてもヤンチャな方が多く、全然知らない人なのに廊下で「おはようございます!!!」と言わないと、

わりと普通に殴られる学校でした。

 

こんなエピソードがひとつ。

たるちゅうはL字に校舎が並んでいて、1年生が小さい校舎、2.3年生が大きい校舎で授業を受けていました。

 

ある日の授業中、窓際の席にいたぼくがふと2、3年生の校舎を見上げると、2年生の先輩が窓から顔を出して美味しそうにタバコを吸ってました。

授業中、授業を行ってる教室で、14才が、です。

 

たるちゅうはそんな学校でした。

 

ぼくは剣道部に入っていたのですが、稽古中に怖い先輩が竹刀片手に乱入してきて、稽古を中断することもしばしば。

そんな漫画みたいな学校でした。

 

高校は神奈川県立神奈川工業高校

中学と同じように剣道部に入りました。

 

工業高校だけあって資格試験や検定が沢山あります。

ぼくは何故か資格ゲッターになって様々な資格試験に挑みました。

 

危険物取扱者乙1種~6種。二級ボイラー技師。

初級システムアドミニストレータ。基本情報技術者。

検定は計算技術検定と情報技術検定をそれぞれ最高位の一級まで取りました。

 

計算技術検定一級は、

方程式とその応用、ベクトルと面積・体積、統計処理

の3種目でそれぞれ70点以上取れば合格なのですが、

ぼくは3種目とも満点で協会からブロンズを授与されました。

 

担任がえらい喜んでいたのを覚えてます。

 

工業高校の生徒にふさわしく様々な資格や検定に挑戦したぼくは、

全国工業高校協会から「優秀生徒」という大きな賞状をもらって高校を卒業したのでした。

芝居漬けの日々

ぶっちぎり一位の成績で卒業したぼくは、

そのまま指定校推薦で芝浦工業大学に入学しました。

 

当時の学長はノーベル物理学賞を受賞した江崎 玲於奈(えさきれおな)先生です。

工業大学ってくらいですからバリバリの理系学校なのですが、

ひとつだけ演劇サークルがありました。

そこがぼくが演劇を始めた場所、演劇サークルカリメロです。

 

お笑いへの夢がいつしか俳優への夢に変わっていたぼくは、

入学前からこのサークルの存在を調べ、即座に加入しました。

 

ぼくの演劇人生の始まりです。

 

二年生の頃には代表となり、作・演出をして何作か作品を発表しました。

授業中もノートに台本書いたり、同じカリメロ仲間と飲み明かしたり、

人生で一番青春してる時期でした。

楽しかった、と胸張って言えます。

付き人になったぞ!

大学3年の終わり頃、

皆が就職活動をしているときにぼくに一本の電話が掛かってきます。

19才のときに出演した、ある劇団の方からでした。

「歌舞伎役者の中村橋之助さんが付き人を探してるから、そこで勉強をしないか?」

え、あの毛利元就(1997年大河ドラマ)の?

皆と同じように就職活動をしていたぼくは、こうして付き人になりました。

一本の電話がキッカケでした。

歌舞伎を見たこともない、社会経験もない、

何も知らない21歳の若造はそこから死ぬ気で働きました。

地方はもちろん、アメリカにも行きました。

すべては俳優になる為に。

そして24歳。

 

芸能の世界を超至近距離で学び尽くしたぼくは付き人を卒業するのでした。

 

ちなみに大学4年と付き人1年目は同じ時期です。

仕事終わりに大学に行ったり、地方で卒業研究をしたりして、

なんとか卒業できました。

北区つかこうへい劇団へ

付き人を卒業して本格的に俳優への道を進み始めたぼくは、

北区つかこうへい劇団の研究生になりました。

 

10ヶ月に及ぶ地獄のレッスン、卒業試験を経て、見事劇団員へ。

しかし、つかこうへい死去に伴い劇団は解散。

再び路頭に迷うのでした。

迷走時代

ここから5年くらいはアルバイトをしながら、

出演する価値があるのか分からない舞台に立つ、

要するにただのフリーターでした。

特に勉強もせず、ただ生活に追われて、生きる為だけの労働。

何がどうなったら映画やドラマに出てお金をもらえるのか。

 

そんなことを考えながらも行動に移せず、ぼくが大きく人生を無駄にした時期です。

ただそのときの苦い経験が現在のぼくの糧になってたりします。

トムランド結成!

そんな迷走していた時代にも今に繋がる大切な出会いがありました。

それが今、ぼくが代表を務めている俳優集団トムランドのメンバーです。

自分たちで面白いモノを作る。

そうして作った作品が2017年に上演された「儚人~はかなびと~」です。

儚人はぼくの代表作なので、

このブログのファビコン(アドレスバーに表示されるアイコン)も儚人になっています。

ドラマにでも出たぞ!演舞場も立ったぞ!

今の事務所(太田プロ)に所属させてもらい、

あれほど出たかったドラマにも簡単に出れました。


2018年、ぼくは俳優として新橋演舞場に立つことができました。

新橋演舞場は2007年にぼくが付き人として働いた劇場です。

11年経って、付き人から俳優になって帰ってきました。

 

そのときの感情は、

とても言葉では言い尽くせないものでした。

そして現在

俳優ブロガーとして俳優活動をしつつ、自身の考えや誰かの為になる文章を日々書き連ねています。

ここまでお読みいただきありがとうございました。

以上!おのぺーの経歴です。

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